『東京ラブストーリー』を今になって見返して思うこと
「あれ……赤名リカって、こんな人だったっけ?」
久しぶりに『東京ラブストーリー』を見返して、最初に思ったのがこれでした。
当時は、赤名リカといえば「一途で、情熱的で、まっすぐな女性」。
好きになったら一直線。
傷ついても諦めない。
自分の気持ちに正直で、恋することに全力。
そして、そんなリカを応援する人も多かったと思います。
私自身も、当時はきっと、リカのほうに感情移入していたのでしょう。
でも、今見ると。
「……ちょっと待って。これ、本当に『一途』なのかな?」
そんなふうに、昔とは違うところが気になってくる。
それは、私の価値観が変わったからなのだと思います。
赤名リカは、本当に「一途な女性」だったのか
リカの恋愛を見ていると、とにかく熱量が高い。
好きになったら、その人のことを考える。
好きだから会いたい。
好きだから一緒にいたい。
好きだから、自分の気持ちを伝える。
一見すると、とても純粋な愛情です。
でも、リカとカンチを見ていると、二人は「好き」という気持ちの強さだけではなく、恋愛に求めているものそのものが違っていたように見えます。
リカは、二人の間に強い結びつきを求める。ドラマを求める。
一方でカンチは、リカの熱量についていきながらも、自分の気持ちを整理しきれない。
だから、好きなのに苦しい。
一緒にいるのに、どこか噛み合わない。
リカは「こんなに好きなのだから、あなたも同じはず」と思ってしまう。
でも、愛情の熱量は、必ずしも相手と同じになるわけではありません。
そして今の私には、そこがとても大きく見えるのです。
「カンチ」という呼び方が、なぜか今は気になる
もうひとつ、今になって見ると気になるのが、リカが完治を「カンチ」と呼ぶこと。
当時は、それも二人の距離の近さを表す、かわいい呼び方のひとつだったのでしょう。
でも、今の感覚で見ると、
「本人がそう呼ばれることを望んでいるのかな?」
と、少し引っかかります。
名前って、意外と大事です。
親しい人からの愛称ならともかく、本人がそう呼んでほしいと言ったわけでもないのに、自分が呼びたいから呼ぶ。
これ、男女が逆だったら、成立するのは難しいでしょう。
そこには、リカの恋愛の特徴が少し表れているようにも思います。
「私はあなたをこう呼びたい」
という自分の気持ちが、
「だから、私たちはこういう関係」
へと自然につながっていく。
悪意があるわけではありません。
むしろ、好きだからこそ距離を縮めたい。
でも、その距離を決めるのは自分だけではない。
相手にも「ここまでなら心地いい」「ここから先はまだ早い」という感覚があります。
今の私たちは、恋愛でも人間関係でも、そういう境界線を以前より意識するようになったのかもしれません。
好きな人を、一人の人間として尊重するということ
ここで思うのは、
「どれだけ好きか」より、「好きな相手を一人の人間として尊重できるか」
ということです。
好きなら、相手にも同じだけ好きになってほしい。
好きなら、こちらを選んでほしい。
好きなら、こちらの気持ちをわかってほしい。
そう思ってしまうのは、自然なことです。
でも、相手には相手の意思があります。
自分を選ばない自由もある。
自分と同じ熱量ではない自由もある。
そして、それでも相手を好きでいることはできる。
今見ると、リカに足りなかったのは「愛情」ではなく、もしかしたら自分と相手を別々の人間として見ることだったのかもしれません。
では、さとみはどうだったのか
そして、さとみの立ち位置が気になります。
当時は、リカを応援していた視聴者からすると、さとみは「二人の間に入ってくる女性」に見えたと思います。
リカがあれだけ一途なのに、どうして邪魔をするの?
そんなふうに感じた人も多かったでしょう。
でも、今見ると、さとみもまた、かなり複雑な女性です。
彼女自身、以前に恋愛で傷ついている。
だからこそ、次はただ待っているだけではいけないと思ったのかもしれません。
一度失敗したから、今度は何としてでも。
そんな「したたかさ」も感じます。
そして、ここが興味深い。
カンチがリカを探しに行こうとしたとき、さとみは最終的な選択をカンチに委ねる。
「選ぶのは長尾君」。
そこには、リカとはまた違うものがあります。
もちろん、さとみだってカンチに選んでほしい。
自分のところにいてほしい。
でも、最後の決定権は自分にはない。
選ぶのは相手。
今の目で見ると、私はそこに「尊重」というものを感じます。
あの頃は、「一途であること」がとてもキラキラしていた
『東京ラブストーリー』を見返していて、恋愛だけではなく、当時の社会全体の空気も思い出しました。
あの頃は、
「好きなものがある」
「恋愛をしている」
「仕事も頑張る」
「人付き合いも上手」
「明るくて社交的」
「おしゃれで都会的」
そんな人たちが、とてもキラキラして見えていました。
恋愛なら、一途であること。
仕事なら、頑張ること。
人間関係なら、みんなと仲良くすること。
空気を読むこと。
ちゃんと人の輪に入ること。
そういうものが、「正しい生き方」のように見えていた・見せられていた時代だったのだと思います。
だから、そこに乗れない人は、
「自分は何か足りないのかな」と思ってしまっていた。
周りは楽しそうなのに、自分はそうでもない。
みんな恋愛しているのに、自分はそこまで興味がない。
みんな友達と楽しそうにしているのに、自分は一人のほうが楽。
頑張っている人を見ると、自分ももっと頑張らなくてはいけない気がする。
そんなふうに、自分の感覚よりも「世の中の正解」を優先してしまうことがあったように思うのです。
「キラキラ」に乗れなかった人たちへ
でも、今になって思います。
あの頃、キラキラした世界についていけなかったことは、本当に「乗り遅れていた」「ダサい」ことだったのでしょうか。
もしかしたら、違ったのかもしれません。
その世界が、自分の行きたい場所ではなかっただけ。
一途な恋愛がしたかったわけではない。
誰かに選ばれることを、それほど人生の中心にしたかったわけではない。
みんなと同じように楽しめなかった。
無理をして人に合わせるより、一人でいるほうが心地よかった。
でも、そんなことを言える空気ではなかったですよね。
だから、自分のほうがおかしいのだと思ってしまった。
今なら、少し違う言葉で考えられます。
「私は間違っていたんじゃない。あの時代の『正解』とは、少し違う場所にいただけなんだ」
と。
あの頃、言えなかったことを、今なら言っていい
時代が変わると、同じものでも、見え方も変わります。
昔は「一途」と呼ばれていたものが、今見ると「相手の領域に入り込みすぎている」と感じることもある。
昔は「頑張っている」と評価されたことが、今なら「そこまで無理しなくてもいい」と思えることもある。
昔は「みんなと仲良く」が正解だったけれど、今は「無理に付き合わなくてもいい」と言える。
どちらが完全に正しい、という話ではありません。
その時代には、その時代の価値観がありました。
ただ、その価値観を、今の私たちはもう、自分の人生に採用しなくてもいいのです。
「あの頃は、そういう時代だったんだな」
と、一歩引いて見ることができる。
そして、
「あのとき自分がついていけなかったのには、ちゃんと理由があったのかもしれない」
と思っていい。
あの頃の自分を、少し赦してあげてもいい
『東京ラブストーリー』を今になって見返して、面白かったのは、ドラマの内容が変わったわけではないのに、自分の見え方が変わっていたことです。
昔はリカの情熱がまぶしく見えた。
今は、その情熱の奥にある寂しさや、リカ自身への自信のなさのようなものが見える。
昔は、そんなリカを「一途」だと思っていた。
今は、「自分を大切にすることも、愛することの一部なんじゃないか」と思う。
そして、それは私たち自身にも言えることなのかもしれません。
あの頃、周りの人たちのようにキラキラできなかった。
恋愛にも、仕事にも、人間関係にも、同じ熱量を持てなかった。
みんなが楽しそうにしている場所で、自分だけ少し冷めているように感じた。
そんな自分を、
「もっと頑張らなくちゃ」
「もっと明るくならなくちゃ」
「もっと人と関わらなくちゃ」
と責めていた人もいるでしょう。
でも。
もしかしたら、そうではなかったかもしれません。
ただ、あなたが欲しかったものと、あの時代が「素敵なもの」として差し出していたものが、違っていただけなのかもしれません。
あの頃、キラキラした世界から少し離れたところにいた人へ。
もしかしたら、あなたは置いていかれたのではなくて、最初から、そこに行きたいわけではなかったのかもしれない。
今の自分なら、そう言ってあげてもいいのだと思います。