もし赤名リカが男性だったら?「一途」と「執着」、そしてエネルギードロボウについて考える

久しぶりに『東京ラブストーリー』を見返していて、前回の記事とはまた別のことが気になりました。

それは、

もし、赤名リカが男性だったら、私たちは彼をどんなふうに見ただろう?

ということです。

好きな相手との距離を、自分の感覚でどんどん縮める。
相手が自分を好きなのか、気になる。
自分と同じくらいの熱量を求める。
相手が離れていきそうになると不安になる。
そして、追いかける。

これが男性だったら、私たちは「一途で情熱的な人」と思ったでしょうか。

それとも、

「ちょっと距離感がおかしいかもしれない」
「相手の気持ちはどうなんだろう」

と感じたでしょうか。

赤名リカを責めたいわけではありません。

ただ、同じ行動でも、性別や時代によって、私たちの受け止め方はずいぶん違うのだと思います。

昔は「一途」と呼ばれていたものが、今見ると「執着」に見えることもある。

では、その境目はどこにあるのでしょう。

「一途」と「執着」の違い

人を好きになれば、会いたくなる。
もっと一緒にいたくなる。
相手が自分を好きなのか、気になる。

これは自然なことです。

でも、自分がどれだけ相手を好きでも、相手には相手の気持ちがあります。

自分と同じだけ好きにならない自由もある。
自分を選ばない自由もある。

私は、「一途」と「執着」の違いの一つは、そこにあるように思います。

「自分の気持ちが強くても、相手を一人の人間として尊重できるか。」

好きだから近づく。
好きだから一緒にいたい。

それと、

不安だから離れられない。
不安だから相手の気持ちを確認し続ける。

この二つは、少し違います。

リカは「悲劇のヒロイン」を必要としていたのかもしれない

赤名リカを見ていて、もう一つ気になることがあります。

リカは、本当にカンチに愛されることだけを求めていたのでしょうか。

もちろん、カンチのことは好きだったのでしょう。

でも、今の私には、ときどきリカが、

「愛されている自分」よりも、「愛されるために苦しんでいる自分」

を必要としているようにも見えます。

会えない。
すれ違う。
追いかける。
傷つく。
それでも愛する。

そんな強い感情の中にいることで、

「私はこんなに愛している」
「私はこんなに苦しい」

と、自分の存在を強く感じているようにも見えるのです。

もちろん、リカが不幸になりたいわけではないと思います。

むしろ、
幸せになりたい。
愛されたい。

でも、リカの中では、

幸福と、その対極にある悲劇が、どこかセットになっている。

そんなふうにも見えます。

穏やかに幸せでいる。

なぜか不安になる。

関係が揺れる(または、揺さぶる)。

傷つく。

強い感情の中で、自分の存在を確認する。

そして、また幸福を求める。

そんな両極を、無意識に往復してしまう。

もちろん、これは赤名リカを心理学的に診断する話ではありません。

ただ、人はときどき、穏やかな幸福の中にいるよりも、強い感情の中にいるほうが、自分が生きていることを強く感じられることがあります。

そして、無意識に、その強い感情を求めてしまうこともあるのかもしれません。

もしリカに本当に必要だったものがあるとすれば。
それは、カンチに選ばれ続けることではなく、何も起こらない穏やかな幸福の中でも、「私はここにいていい」と思えることだったのかもしれません。

自分の不安を、誰かに預け続けると

不安なとき、誰かに話を聞いてほしい。
「大丈夫だよ」と言ってほしい。

それ自体は、悪いことではありません。

でも、自分の不安が生まれるたびに、「誰かに安心させてもらわなければならない」となってしまうと、相手は少しずつ疲れていくことがあります。

「私を見て」
「私の話を聞いて」
「私の気持ちをわかって」
「私を安心させて」

本人に悪意があるとは限りません。むしろ、その人自身も苦しいのだと思います。

ただ、自分の中に生まれた不安や寂しさを、自分だけでは抱えきれず、誰かに預け続けると・・・

自分は少し楽になる。
でも、相手は少しずつ疲れていく。

私は、こういう状態を、ときどき勝手に、

「エネルギードロボウ」

と呼んでいます。

エネルギードロボウは、恋愛だけの話ではない

これは、恋愛だけで起こることではありません。

友人関係でも、家族でも起こります。

たくさん話すことで元気になる人もいる。
誰かと一緒にいることで安心する人もいる。

一方で、一人の時間がないと疲れてしまう人もいます。

人の話を真剣に聞くからこそ、相手の感情まで抱えてしまう人もいる。

こういうエネルギーの量が違う人同士では、関係に偏りが生まれることがあります。

一方は、人と関わることで元気になる。
もう一方は、人と関わることで疲れる。

最初は楽しい関係でも、気がつくと、

「会う前から少し疲れる」
「連絡が来ると、返事をする前に気合いがいる」
「話を聞いただけなのに、何もする気がなくなる」

そんなこともあります。

相手が悪い人だからではありません。

好きな人でも、大切な友人でも、疲れることはあります。

ただ、二人の間で、人間関係に必要なエネルギーの量が違う。

それだけのことかもしれません。

誰かの感情を、すべて受け止めなくてもいい

恋人だから。
親友だから。
家族だから。
だから、相手の気持ちをすべて受け止めなければならない。

そんなふうに思う必要はないのだと思います。

相手に寄り添うことはできる。
話を聞くこともできる。

でも、その人の不安や人生まで、自分が代わりに抱えることはできません。

そして逆に、自分の不安を、いつも同じ誰かに預けなくてもいい。

誰かに話すこと自体は、悪いことではありません。

つらいとき。
誰かに聞いてほしいとき。
自分の気持ちを整理したいとき。

人に話すことで、気持ちが軽くなることもあります。

ただ、その役目を、いつも同じ友人や恋人、家族だけにお願いし続けなくてもいい。

ときには、話を聞くことを仕事にしている人を頼るという選択肢もあります。

心理カウンセラーに話す。
あるいは、占い師に話してみる。

占いは、運勢や未来を当ててもらうためだけのものではありません。

今、自分が何に悩んでいるのか。
なぜ、こんなに気持ちが揺れているのか。
誰にも言えなかったことを、言葉にしてみる。

そんな時間として利用することもできると思います。

幸せの中にいても、自分の存在を感じられること

赤名リカを見ながら、いろいろ考えました。

好きな人に選ばれること。
愛されること。
誰かと一緒にいること。

それらは、もちろん幸せなことです。

でも、強い感情やドラマがなければ、自分の存在を感じられないとしたら。

幸福と悲劇を、無意識に行き来し続けることになってしまうかもしれません。

穏やかな毎日の中でも、自分はここにいていい。
誰かに愛されている証拠を、何度も確認しなくても大丈夫。

そして、誰かの不安を、すべて受け止めなくてもいい。

人と人との間には、それぞれが抱えられる量があります。

そのことを知って、少し距離を取ったり、話す相手を分けたりすることも、人間関係を長く続けるためには必要なのかもしれません。

どれだけ相手を必要としているかではなく、どれだけ相手を一人の人間として尊重できるか。

そして、

何も起こらない穏やかな幸福の中でも、自分の存在を感じていられること。

それもまた、人を愛することと同じくらい、大切なことなのだと思います。